昭和42年05月30日 朝の御理解



 甘木の初代の安武先生、時々徹夜で御結界奉仕をされる様な事があったそうです。これはあれだけの大変な、ま当時日本一と言われる程の大きな教会でございましたから、沢山の信者もおります沢山の出社がございます。ですからその信心の中心でおありになりますところの先生が、そのことに対してのお礼やらおわびやら、又はお礼の印やらおわびの印やらと言う様な事で、そして御修行されておったんだろうと思います。
 ある時にあるかたにもらしておられる事が、本当に先生朝晩そのそれこそ昼夜を通しての厳しい御修行でございますから、ある方がそのことをご心配申し上げた時に、家族のものが信心ができんからおわびの印に、と仰った事があったそうです。皆さんどうでしょうか。皆さんはご信心をなさる。だんだん御信心がみについて分からせて頂いて、こんな事じゃおかげが受けられん。
 こう言う事に成らなくてはならない、と言う事が分かって来る様になる。そうするとまあ例えていうなら、主人が信心を始めますと家内の不信心である事が目に付いて来る。いや不信心どころではない、これでは神様に対してご無礼になる。と言う様な事が分かって来る。親なら子供の不信心が是ではあいすまんと、是だけのおかげを頂きながら子供が信心になってくれないと。本当にそう言う様な事が目立って来る。
 その様な事は御座いませんか。私はやはり本当にそれがですね自分の周囲に、又は自分の家族の中にそれが目立ってくる。という時にはその方の信心が相当に進んでおる時だと思うですね。一家を上げて成程勢を揃えた信心と言う事は、出来ておりましてもやはり極道がある。例えていうなら私の方あたりの家族というのは、皆んな信心しない者はおらんどんな小さいとでも。
 何かと言えば神様といい時にはご神前に出て、御祈念をしてお願いをする。まあ家族中のものが、ま信心になっていくのですから、ま勢を揃えた信心といえるのでしょう。けれどもそれは私から見ます時に、折角信心をするとしたらあげな事じゃいくまいのにと。言う事があるです。折角信心させて貰うならばこんな事で、しかも教会家族がそんな事でと言う様な事が感じるのですよ。
 皆さんでも折角椛目では大概中心になるほどしの方の信心であるならばです。ここの中心になるほどしの方達の信心であるならばです。もう殆どがもう家族上げて信心なさいます。これはもうここの特色と言うてもよいくらいですよ。よその教会ではですね。お母さんは熱心な信者。お父さんは熱心な信者。総代までしちゃる。と言う様な所でもですね、家内がついて来ないとか、家族がついて来ないという。
 その一家を上げての信心というのが非常に少ないです。椛目にまたこうして合楽に移らせて頂いて、合楽ではどうしてああ言う様な、その事が出来ただろうかと皆が言われる原因のひとつ。ね。それが椛目の方達はですね合楽の皆さんはですね、一家を上げての信心であったから、出来たんだと言う事が言えますよ。確かにそうでしょう。例えばそんならご造営ならご造営に、ご造営ご造営と言う事に。
 もう明けても暮れてもお父さんがその一生懸命なっとる。もう本当にご造営ご造営ちいくら神様んことち言うたっちゃ、そげん一生懸命ならんでっちゃよかろとにち、家内が言うたらもうでけんです。子供がもう親父が神様神様ばっかり言うてからというて、子供が腹かくならもうお父さんが、本当に打ち込んで御用がでけんです。ところが椛目の場合はですねそれが本当に、家族を上げての信心の人達が。
 ここの信心の中心をなすという人達の上に、家族あげての信心であったから、でけたんだと言う事が私は言えると思うですね。そのことが有り難い有り難いけれどもです、なら一家中で信心をさせて頂いておるというてもですね、一生懸命打ち込んでもそのとやかく言うものが家族におらなくてもです。極道があります。ですから出来ておる人の目から見ると、子供がまちっと本気になってくれるならいいけれども。
 主人がまたは家内がと言う様に目立ってくる。私は目立って狂う様に成る事が、人のことが目につくと言う事はです、私はその方はもう一生懸命自分の信心をさせてもろうて、おかげを頂こうとする意欲を持っておる時ですから、私はおかげだと思うですね。まあ例えて言うならどうでしょうか。一生懸命お掃除が好きな方がおるとします。それでいつもそのほうきを握りぞうきんを握って、家の中を奇麗にしておる。
 ところが他の家族の者はそうでもない。今掃いた所をもう散らかす。今拭いた所をもう泥足であがる。もうそげな今拭いた所をもうそげな泥足であがって、今掃いた所をもう散らかしてというふうに目立つ様なものじゃないでしょうか。一生懸命お掃除好きの方がおってお掃除をしよるとですね。そういうふうに見えてくるというか、その人が愈々お掃除好きになったという印しなんですよ。
 目立つのは。それがどこを散らかしてもどこを汚しても平気になってしまう。所が自分自身ももうお掃除をする意欲がなくなる。美しくしようという気がない時ですから、これはもうろくそなかっといちおうに、なって行きよるときですから、ね。そう言う事が例えていうなら言えると思うです。限りなく美しくなろうと、限りなく美しくなろうと、限りなく改まっていこうとしかも家族中のもので。
 と中心になる人の信心が一生懸命に信心になろうじゃないか、信心になろうじゃないかと本気で改まっていこうじゃないかと、例えば夫婦なら夫婦のものではなしおうて、本気で信心させて頂きよるけれども、子供たちがそれを引きづり降ろすようにして、信心になっていかない。反対のことをする。いわゆる散らかしたり汚したりする。それが目立つ目立つから、それが言わなければおられないと言う事になる。
 という時にはですねもう一つの信心の過程ですけれども、それはそこまで信心がもう進んでおる時だと。それで始めの間はそげん散らかしてからと、そげん汚してからと言いよるけれども言うても聞かん時に初めてここに分かる。一生懸命廊下を綺麗に拭いておった。そしたらまた泥足であがる。今拭いた所を又汚してからと始めは言いよったけれども、段々本当の信心が分かって来る様になったらおかげで、また御用ができた。
 おかげでまた御用が出来たともう掃除で終わってないんですよ。例えば拭いたり掃いたりする事もうその事が御用となってるんですよ。こうなったら素晴らしいです。人が汚したあぁまた御用が出来ると、人が散らかしたまた御用ができた。掃わくたんびに拭くたんびに、もう自分自身の心の汚いものを掃き出す様に自分自身の心を愈々清めた上にも清める様な気持ちでお掃除が出来る様になった時にです。
 本当にその事に対してお礼が申しあげられる様になる。貴方足が汚れておりますよというて拭いておる雑巾を持って行って足を拭いてあげる様な気持ちになる。そこにですね私は本当の信心が出来て来る様になるのじゃなかろうかと思うですね。是は信心の上においても言うても同じ事なんです。自分が本気で信心を進めようと一生懸命になる所が子供の中に不信心な者がおって。それをきづり降ろしたり汚したりする様な事をする。
 こんなこんな事じゃこの人が助からない。こんな事じゃこの人がおかげを受けられない。折角自分が信心しよるのに子供が引きづり降ろしてしまうというて、腹立たしい様な気持ちになるけれどもそういう者がおればおる程、おかげで信心が出来ますと言う事に成って来る訳なんです。久留米の初代の石橋先生といやあ、本当に金光様から「石橋さんこそ真の人ですなあ」と言われる程しの立派な信心をされておられたにも拘らず、
 家庭の中には大して恵まれたものではなかったそうですね。第一お子さんがお小さい時に高い所から落ちられて頭を打たれてですね、いわゆるそのご長男が道雄先生と申しておりましたが、まあ本当にこちらに下がっておられる時には、若先生といわんな馬鹿先生と呼ばれるぐらいだったです。ああいう素晴らしい先生の所にですら、そう言ういうなら露骨にいうなら、そういう馬鹿先生が出来られたと言う事なんです。
 ある時に師匠である所の桂先生の所でお祭りかなんかの後でございましょうね。それこそ出社の偉い先生方が綺羅星のように並んでご直会があっておる。その時に桂先生が石橋先生に向かってから仰った事。「石橋さんあんたんとこの息子は馬鹿じゃな」と仰ったそうです。満座の中で本当にもう、いくら師匠でも満座の中でです。自分所の子供を馬鹿というた。というて顔色くらいは変える所でしょうけれども。
 さあ流石真の人ですから、信心が出来ておられますから「親先生、おかげで信心が出来ます」と仰ったそうです。それこそ桂先生がですね「石橋さんでかした」というて、一番におさかづきを差されたという話が残っております。それなんです信心とは家族の中にかたっぱしから自分の信心を崩していく子供がおる。片っ端し自分の磨いた所を汚していくこどもがある。家内が言う事をきかん。いくら言うても信心にならん。
 それこそあんたんところの息子は馬鹿じゃと言われる時でも、真実もう本当に私もそげん思うておりますと言うならですね、腹も立ったでしょうけれどもです。その事のおかげで、私の信心が一切受けてこられたんだと思うんです。これだけのおかげを頂かせて貰いながら、こう言う事になって私のじゅうじゅうお粗末ご無礼のこういう形に現れておるということを、神様に平身低頭お詫びをさせて頂いたに違いないです。
 またそれを見るにつけ、聞くにつけ、自分の信心の不行き届きとして、おわびをされた。また、お願いなさったりして、おわびなさったにちがいない。それ一切が自分の信心になっておるましたら、間髪いれずにですたい、「顔色ひとつ変えるだんじゃない。先生おかげで信心ができます」ということが言わられたんじゃないかと私は思うです。そういう時、例えば、甘木の初代がです、夜を徹して、御結界奉仕をなされた。
 その背景には、いろいろあったでしょうけれども、中には、家族のものが信心ができんから、おわびのしるしにと、もう家族の者にも求められずに、そのことを自分のご無礼として、神様におわびをし抜いておいでられたということ。もう、本当に尊い事だと思います。信心というのは、尊いというところまでいかなくては、だめだと思う。おかげで信心ができるのである。私どもは、それを感じますですね。
 本当にあんたそげなことでおかげ頂けると思うかと信者の中にも思う人がおります。もう家族の中にも目に余るような言うたり、したりするようなことがあります。それが信心の家庭か。それが教会家庭の在り方かと。それでも、あんたんところは、一家中が信心しておるとかと言いたいようなこともありますけれどもです。それが目立ってきたということは、先程も申しますように。
 自分の信心が、だんだん本当のものになっていきよるから、いうなら、自分がお掃除好きになっていきよるから、人が散らかしておるのが見えてくるのですから、ありがたいことなんですけれども、それをもう一歩前進せにゃいかんです。散らかしたおかげでまた御用ができる。汚す人がおるおかげでまたそこを拭くことができる。世の中にどうでしょう。きれい好きの人ばっかり例えていうなら。
 山本ふじこのごたる人ばっかりおったらどうでしょうかね。器量が善いも悪いもないじゃないですかね。林長次郎なら、林長次郎ばっかりあなた、良か男ばっかり揃うとったらもうよか男の値打ちはなかですよ。家族の中でも本当に、もう神様のことばっかり言いよったらですね。わたしは、値打ちがないと思うんですよ。かえって。汚す人もおる。散らかすともおる。
 器量の良かつもおりゃ、悪かつもおる。そこで初めてわたしは、むしろ、調和がとれてくるのではないかとこう思うのですよ。ですから、それもまた、おかげなんです。そこのところを久留米の初代は、または、甘木の初代は、只今、申しましてようなふうに、お受けになっていかれた。ということなんです。私共でも皆さんでも、段々信心が分かってくるようになると、はあ、家内がまちっと信心になってくれると。
 子供たちがまちっと本気になってくれると、とそれが愈々思う様になると言う事は、あなたの信心はそれだけ、もう向上しておるんだと言う事です。けどそれでよいのではありません。そのおかげで信心ができますと言う所まで。散らかしてくれますおかげで、又御用が出来ますと言う様な信心にお互いが信心を進めさせて頂く時に、信心が愈々尊いものと言う事になっていくのではないでしょうかね。
   どうぞ。